(平成22年1月30日)
ラプラスの確率は事象が観念的な連続的な状態にまで安易に使われて多くのパラドックスを生んでしまいました。ラプラスの確率定義にあった「等しく起こり易い」条件も非難の対象にされました。 そこで、フォン・ミーゼスは相対頻度の極限値を確率の定義にしました。これは次のようなものです。 n回の試行を行ったとき、そのうち好ましい結果がr回あったとき、nを無限大にまで大きくしたときの相対頻度r/nを確率とする この確率定義は、判りやすかったこともあって、当時の生物学者達に好まれ、またたく間にラプラスの確率を古典確率に追いやってしまったのです。そして未だに、正統派確率統計学を標榜する人たちの考え方の基礎になっています。ベイズ流統計学により、宗旨変更を遂げた人もいますが、それでも捨てきれない人たちが多いのです。 この定義ではどこが駄目なのでしょうか。論理的に考えれば実世界は何を取っても有限ですから、無理な定義であることは判ります。しかし、人間は時に論理的でないほうを好む動物だということでしょうか。それでは進歩はありません。 まず、実世界では無限の繰り返すことは出来ません。有限の操作ができるに過ぎません。 次に、1回しか起こらないことに対しては無力です。フォン・ミーゼス自身が、1回しか起こらないことには使えないと言っています。実際は、常に1回の事象の確かさが問題となるのです。 「真の確率は判らないから、信頼水準をおいて、この確率を推定する」ということは論理的に誤っていません。ただ、この方式では信頼水準の置き方で、結論を逆転できてしまうという矛盾を孕んでいるのです。 この矛盾を指摘したものが次のURLです。 それでは、コルモゴロフの公理を満たしているのでしょうか。 |
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